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50年前の弾圧と虐殺が残した民族的記憶=チベット人焼身抗議はなぜ自治区以外に集中しているのか?

2012年04月18日

相次ぐチベット人の焼身抗議。その事件の発生地点が地域的な偏りがあることが気になっていた。一人頭を悩ましていたところ、米ニューヨーク在住のチベット現代史研究者・李江琳さんがその理由は「50年前の弾圧、虐殺にある」と分析するブログエントリーを発表したのでご紹介したい。


Tibet  བོད།
Tibet བོད། / reurinkjan

2011年3月以来、38人ものチベット人が焼身抗議している。うち5人は亡命チベット人。残る33人がチベットでの焼身だが、四川省や甘粛省のチベット族自治州に集中している。チベット自治区では焼身抗議の報告例はないようだ。チベット自治区では2011年12月1日にテンジン・プンツォクさんが焼身した一件のみの報告のようだ。
(関連記事:13人目の焼身抗議者=チベット自治区内、妻子ある身では初めて―チベット(tonbani))。

これはなぜなのか、気になってしょうがなかったところに、李江琳さんが解説するブログエントリーを発表したのでご紹介したい。


チベット人の焼身抗議はなぜチベット周辺の省で起きているのか?
ブログ「チベット:もう一つの真実」、2012年4月16日

■北京政府のチベット分割統治の技量

若きチベット人僧侶、尼僧の相次ぐ焼身抗議は世界を驚かせ、悲しませるものとなった。彼らはなぜこのような惨烈かつ痛みを伴う手段をとるのか?なぜ彼らは焼身するのか?チベット自治区の白瑪赤林主席は両会の最中、外国人記者の質問に応じた。焼身事件の具体的訴えについては言を避け、逆にチベット自治区の「情勢はきわめていい」と言ってのけた。チベット自治区では焼身抗議は起きていない、と。

確かにこれまでの焼身抗議は四川省アバ・チベット族チャン族自治区州及び甘粛省、青海省のチベット族居住地、いわゆるチベット周辺の4省チベット人居住区で起きている。なぜ4省チベット人居住区のチベット人はこれほど惨烈な手段で抗議するのか、みなは疑問に思わずにはいられないだろう。

(4省チベット人居住区では、)チベット人が近代史で受けた民族的圧迫が最も重く、中国共産党の統治確立の過程において迫害が最も深刻で、チベット人の反抗が最も激烈で、そして鎮圧と殺戮が最も血なまぐさく、残酷であったから。これが答えとなる。

四川省、青海省、甘粛省、雲南省のチベット人居住区は、チベット自治区と隣接している。歴史的にいうと、チベット三区のうちカム地方とアムド地方に属する。この地に住むチベット族は言葉も風習もラサとはやや異なる。しかしチベット仏教を信仰しており、彼らがチベット族の一部であることを疑うものはいなかった。
(チベットはウーツァン、アムド、カムの3地方に大きく分類される)
 
だが、1950年代に人民解放軍がチベットに侵入する以前から、4省チベット人居住区は中国共産党新政府の手中に落ちており、チベットの一部分とは見なされていなかった。中国政府がチベット政府に十七か条協定の調印を迫り、同時にチベット人の意志を無視してチベットの現状を変更しないと約束した時、4省チベット人居住区はその範囲に含まれなかったのだ。
(十七か条協定: 1951年に締結された「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」。チベットを中華人民共和国の一部と位置づけると同時に、チベットの民族自治の保証などが盛り込まれた。ウィキペディア日本語版

1950年代初頭、チベットはある意味で十七か条協定の保護を受けていたというならば、4省チベット人居住区のチベット人はこのような保護を受けられなかったし、周辺4省の中国共産党幹部は支配下にあるチベット人を処する際に十七か条協定の制約を受けなかった。


■中共、チベット人居住区の「反乱」平定の陰謀を画策

中国共産党の最高指導者はチベット問題の特殊性を理解していた。つまり「チベットは古来以来中国の一部である」という論法は暴論であると知っていたのだ。ゆえに武力をもって十七か条協定をチベット政府に強要した。しかし中国共産党が自らの綱領と目標を実現する(共産主義)革命を推進する際、チベット人の意志を無視してチベットの現状を変えることはないという十七か条協定は、中共の手足を縛るものでもあった。この制約を打ち破るべく、チベット周辺の4省から「現状の変更」は始まった。

当時、周辺4省の地方政府はチベット人居住区に対して土地改革、寺院破壊、地方指導者とラマに対する闘争を推進し、チベット人の反抗を招いた。ダライ・ラマは毛沢東に親書を送り、インドに政治亡命することで抗議した。毛沢東は周恩来をインドに派遣し、ダライ・ラマをなだめ、「6年間チベットの現状を変えない」と約束した。6年後、もしチベットがやはり同意しないのであれば、その後も現状を維持する、と。またチベット改革の準備作業を中止するよう命じている。
(追記:記事にある1959年以前にダライ・ラマが一度、インドに亡命していたという話は確認がとれず。1956年に1度、インドを訪問しているが、それは「仏陀生誕2500周年祭」に出席するためだった。Tonbani氏のご教示による。)
( 再追記:1956年の「仏陀生誕2500周年祭」にダライ・ラマが出席した際、チベットに戻らずインドにとどまることを検討したとの記載がダライラマ法王日本代表部事務所ウェブサイトにある。李氏の言う亡命は「仏陀生誕2500周年祭」を指している可能性が高い)

だが、この時、周辺4省のチベット人居住区で行われていた「民主改革」はどうなったのであろうか?

1956年から57年にかけ、中国共産党内部でもこの問題について激しい議論が交わされた。最終的に「金沙江以東(チベット本土以外)では改革を徹底する」という方針が決定された。つまりチベット本土では「民主改革」は一時中止するが、周辺4省の「改革」は中止するどころか、より大規模に展開されることになったのだ。

周辺4省のチベット人はただちに反旗を翻し、1956年から62年まで続く武力抗争へと発展した。これが中国共産党の歴史でいうところの「平反闘争」である。

この戦争はチベット全体を席巻するものとなり、現代の漢族・チベット人の関係を徹底的に変えるものとなった。この戦争において最も辛い苦しみを受け、最も酷たらしい鎮圧を受けたのが、4省チベット族居住区である。とりわけ現在、焼身事件が頻発している地域なのだ。

毛沢東ら中国共産党最高指導者はチベット人が「民主改革」に反抗すると予想していた。1956年3月9日、鄧小平は中央書記処会議で次のように発言している。

上層部が示した金沙江以東の改革徹底の方針を守るには武力しかない。戦闘の上に(改革を)築くしかないのだ。戦いが大きいほど、徹底的なほど好ましい。これはおざなりにしてはならない。おそらく何度かの戦闘で解決するだろう。躊躇すればするほど悪い結果になる。武力、徹底的な武力しかない。戦闘の準備をしよう。

彼ら(中国共産党指導者)の策略は、まず4省チベット族居住区を「改革」し、チベット人を反抗させる。その後、「反乱平定」を名目にチベット本土にまで戦火を広げるというものであった。それによってチベットを「改革」しないという約束、「現状維持」という十七か条協定を保護にするという考えだった。

毛沢東は青海省共産党委員会による「全省の反乱鎮圧問題に対する支持」という文書に対して、「青海省反動派の反乱は大変望ましい」「混乱は大きければ大きいほどよい」と回答している。反乱が起きれば、武力を使うチャンスとなるからだ。

1956年から始まったチベット人居住区の「反乱」は、中国共産党の策略の結果、生み出されたものだった。「反乱」を受け、中国共産党は「先手を打つ」形で、チベット人のリーダーやラマらを次々と殺害していった。1958年3月下旬、甘粛省甘南チベット族自治州で、チベット人の暴動が起きた。事件後、中国共産党中央統一戦線部の李維漢部長、汪峰副部長、中央民族事務委員会の楊静仁副主任は蘭州を視察。4月12日、彼らは連名で「甘南チベット人居住区反乱問題の鎮圧に関する意見」を党中央に提出した。

同文書は「(チベット人の)リーダー、とりわけ影響力のあるリーダーは我々の管理下に置くべき。反乱の可能性があるものは監視するべきだ。各種の適切な手段を用いてこれを迅速に実行するべきである」「甘南チベット人反動分子の上層部数人を殺害することで厳格な警告とするべき」と提案している。

党中央はこの報告書に指示を加え、甘粛省、青海省、四川省の党委員会に転送している。「殺害許可」の問題については「反乱鎮圧」後に再度検討するとしたものの、全体的には李部長らの意見に同意するものであった。(管理と監視の)具体的な執行については各地方に任せるとした。(この文書のお墨付きもあり、地方政府による)大量殺害も多かったという。


■チベット人エリートを虐殺した「過馬営事件」

1958年6月16日、青海省の高峰・省委員書記は、省委員会書記処会議において、「あの足手まといらは戦場で殺せるなら殺してしまえ。遊牧民地区の封建主義をはぎ取るのは武力しかない。奴らの頭目を引っ捕らえば任務の50%は達成だ。銃殺すれば100%達成だ」と発言した。また高書記は「反乱はいいことだ。敵を叩く口実になるからな」とも発言している。

こうした背景下で、「過馬営事件」が発生した。青海省海南チベット族自治州貴南県の東部県境、県都から78キロが離れたところに過馬営鎮がある。1958年5月13日、貴南県共産党委員会は、省委員会の通知に基づき、勉強会・会議の名目で、県内の少数民族上層部ら42人を集めた。過馬営鎮に差し掛かった時、彼らはある大きな部屋へと案内された。

部屋に入ると、扉には鍵がかけられた。そして事前に配置されていた警官、兵士が窓から銃弾を撃ち込んだ。武器一つ持っていなかった42人は全員が死亡した。このような虐殺が高書記の称賛を得たのだった。

公開史料によると、このような会議・勉強会目的でチベット人エリートを拘束、監禁、虐殺するやり口は、4省チベット族居住区では当たり前のように起きていたようだ。1959年3月、人民解放軍駐屯地での観劇にダライ・ラマが誘われた際、ラサのチベット人が阻止したのは、こうした出来事があったからだ。
( 1959年3月、人民解放軍はダライ・ラマを観劇に招いたが、ラサ市民は中国が拉致をたくらんでいるとして抵抗。ラサ蜂起、ダライ・ラマのインド亡命へと発展した)

ジェノサイド的なこれら残虐な事件の歴史は半世紀の間、中国政府によって隠され、ねじ曲げられてきた。中国国民のほとんどはまったく知らないだろう。しかしあの民族的災厄を経験したチベット人にとって、史実は民族の集団記憶の中にしっかりと植え付けられている。

これが当時最も残酷な鎮圧の舞台となった地域で、チベット人の決死の抗議が現在相次いでいる理由である。

 コメント一覧 (1)

    • 1. 搾取共産主義者ども許さず
    • 2012年11月26日 10:12
    • 5 読んだ
      忘れないぞ

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