黒澤世莉です。また間があいてしまいました。

●浄化/カタルシスについて
カタルシスという言葉は、演劇などを観てスッキリすること、くらいの意味で使ってます。とくに最後のシーンとか、観劇後の感覚で使われることが多いような気がします。オープニングとか、上演の途中で感じるってことはあまりないように思われます。定義が揺れる言葉なので人それぞれあるかと思いますが、私はそんなふうに考えます。

演劇づくりにおいて、カタルシスのことをどれくらい考えているのか、これも演出家によって意見の分かれるところだと思います。私は、個人的にカタルシスのある演劇は好きですが、自分がモノを作るときには必ずしも重要視しません。戯曲によって変わるもんだと思うので。

「戯曲によって変わるもの」というのは、例えば時間堂の2010年公演「月並みなはなし」と2011年3月「廃墟」、演劇の質としては「花」と「火」くらい違う作品だったと思いますが、創り上げるプロセスはほとんど同じです。このことは私の演出論のかなり大きな部分を占めることになるので、次の演出ノートに別立てて書きます。

で、カタルシスです。
「廃墟」に関しては、戯曲をなんとなく受け取っちゃうと「深刻で重ったるい話」になっちゃうんだけど、よくよく読むと「力強くて理不尽で論理的でバカ」かつ「最後はドリフ」なんじゃなかろうかと思うに至りました。この読みが正解か不正解かは分かりません、十郎さんご本人が聞いたらふざけんなとぶん殴られるかもしれません。しかし、私としては、読んで、俳優が立ち上げているのを観て、これしかないと今は確信してます。

「最後はドリフ」ていうのが重要で、なんかもう、いろいろ難しいこと言ってるけど結局斧でドンじゃないですか。それを「人間の論理倫理は生命の危機に抗し得ない悲劇」とか考えてもいいんですけど、それじゃ面白くないし、だいたい十郎さんが2:30かけてお客さまに伝えたい事ってそんな事じゃないと思うわけです。

うまく言葉にできないのですが、十郎さんはそれでも希望を書こうとしてると思うんです。でそれは理屈じゃなくて、生への根源的な肯定としか言えない、理屈じゃない印象なんです。いろいろ理屈並べてますけど、最後は理屈超えちゃうのが十郎さんのいいところだと私は思いました。

お父さんが、無意識にせよ、次男を殺そうとする。次男は間一髪助かる。周囲はビックリする。そこでお父さんも息子も一度死んでるわけです。最後の次男の声で終わる。この声がプライマル・スクリームというか、生まれたときの声に近いのではないか、と。それは次男の未来に対する希望でもあるし、次男に仮託された日本社会の未来への希望でもある、と読みました、ていうかつくりながら至りました。

こういうこと、最初に読んだら分かるんじゃなくて、俳優に立ち上げてもらって、つくりながら、なんとか辿りつくものです。最初はちんぷんかんぷんでした「廃墟」。

いろんな主義主張の人が、自分こそ正しいと譲らないんですが、その答えの出ない感覚はまるっきり現在と重なりますし、答えが出ないのに強引に生を肯定しちゃうところに、カタルシスがあるなあ。単純にいえば、お客さまにスカっとしてほしいなあ、と思って演出しました、「廃墟」は。

で、最後にスカっとするためには、ほんと、議論が拮抗するというか、答えが出ない憤懣やるたかない感じの圧を、ギラギラした熱と空腹感でパンパンにしたらないといけんなあ、と考えてました。



ちょっと話それますが、
焼け野原になったあとの東京にいる人々は、いまの人々より元気だったと思うんですね。貧しいし犯罪多いし不衛生だし、でも元気。それは、明日は今よりいい日になるという実感があったからだと思うんです。たぶんリーダーは今も昔も頼りなかったと思うんですけど、町の人は元気だった。だから、というのは乱暴ですが、いま大変な東北と北関東のみなさんも、元気出せとはいいませんが、明日はきっと今日よりいい日になると思うので、生きていっていただければと思います。